2009年11月21日
川俣晶の縁側歴史と文化下高井戸周辺史雑記 total 3066 count

新編武蔵風土記稿の「下高井戸宿」を読む Part-4 (最終回)

Written By: 川俣 晶連絡先

小名 §

向原 東北の界なり、

鎌倉橋 西寄りなり、

柏之宮 東寄りなり、

 柏之宮は現在では鎌倉橋近くにある柏之宮公園に名前が見られますが、その2つが西寄りと東寄りと書かれているのは良く分かりません。小字の名前として「蛇場美」は出てきません。誤記なのか、それともより新しい時代で変化しているかまでは分かりません。これも新しい研究テーマでしょう。

水利 §

井ノ頭上水 西の方上高井戸宿より入、東の方和泉村に達す、水路村内にかゝること五町ばかり、

多磨川上水 西の方上高井戸宿より入、東の方和泉村に達す、村内を過ること五町許

 さて。これを書くために最後まで書いてきたと言っても過言ではありません。

 井ノ頭上水は現在の神田川でしょう。

 多磨川上水は玉川上水でしょう。

 問題は距離です。

 どちらも5町つまり1町=100メートルとすれば約500メートルですがそれはあり得ません。下高井戸全体をほぼ東西に貫通し、「村の廣狭は東西へ十八丁餘(あまり)」としているのに、5町はあり得ません。

 もう1つ蛇行の多い神田川と直線的な玉川上水が同じ長さであることも気になります。

 仮にこの記述が事実だとすると必然的に以下のことが考えられます。

  • 下高井戸と呼ばれる地域の形状は現在とは異なる (Part-1で述べたことも参照)
  • 神田川と玉川上水を積極的に手放している
  • 境界線を流れる神田川の方が手放す割合が大きい

 要するに取水点から水さえもらえれば農業は成立するし、玉川上水下高井戸分水もあります。金や労役を要する「上水」の類は積極的に手放し、その分だけ「甲州街道」の「宿」に力を入れていた、と言うことなのでしょう。それが「大名はあまり通らないが宿は維持しなければならない」ことを要求された「下高井戸宿」の生きる道だったのでしょう。

 とすればどこを手放したのでしょうか? これも研究課題です。

感想 §

 時間は掛かりましたが、終わりました。終わったけれど、結局新しいはじまりに過ぎません。結局、分からないことだらけです。

下高井戸周辺史雑記